どうせ死ぬ。
最後は、必ず死ぬ。
臨終の時は、誰にでも平等に訪れる。
生まれてくる時も、
死んでいく時も、
結局は一人なのだと思う。
どれだけ人に囲まれていても、
その瞬間を、代わりに迎えてくれる人はいない。
これは、変えようのない事実だ。
この事実を前にすると、
人は時々、虚しくなる。
頑張る意味はあるのか、
積み重ねたものに価値はあるのか、
そんな問いが、心に芽を出す。
けれど、
「どうせ死ぬ」という事実は、
人生を軽くするための言葉ではない。
むしろ、
生きている一瞬一瞬を、
これ以上なく重くする言葉だ。
限りがあるから、
今日という一日は二度と戻らない。
限りがあるから、
人の言葉は、時に胸に残る。
最後は一人で死ぬ。
それは、孤独というより、
「自分の人生を、自分で引き受ける」ということなのかもしれない。
誰のせいにもできず、
誰かに押し付けることもできず、
ただ、自分として生きた時間を抱えて、終わる。
だからこそ、
誰かに優しくしたこと、
正直であろうとしたこと、
逃げずに向き合った夜が、
静かに意味を持つ。
死は、人生の否定ではない。
死があるから、
生は、輪郭を持つ。
どうせ死ぬ。
だからこそ、
今日の自分を、誤魔化さずに生きたい。
それが「ココロの庭」に、
小さな一本の木を植えることなのだと思う。

