不貞はなぜ許されないのか

人生・生き方

――宗教が語る、人の心の約束

人はなぜ、不貞を「してはならない」と教えられてきたのでしょうか。

それは単なる道徳や、古い決まりごとだからではありません。宗教が長い時間をかけて語り継いできたのは、「人の心を壊さぬための智慧」そのものです。

多くの宗教に共通しているのは、約束を尊ぶという考え方です。

夫婦や伴侶との縁は、神仏の前で結ばれたもの、あるいは天から授かったものとされます。その縁を軽んじる行為は、相手を裏切るだけでなく、自らの魂をも曇らせると教えられてきました。

仏教では、欲に流される心を「煩悩」と呼びます。

不貞は一時の感情に身を委ね、理性と慈しみを置き去りにした姿です。その結果、心には必ず「乱れ」が生じます。隠す苦しみ、嘘を重ねる不安、そして自分自身を欺いているという静かな後悔。これは因果の道理として、必ず自分に返ってくると説かれます。

神道においても、不貞は「穢れ」と捉えられてきました。

穢れとは汚れではなく、本来あるべき調和が崩れた状態を指します。人と人との関係、家庭の気、そして自分自身の心の清らかさ。そのすべてが乱れ、知らぬ間に日々の運びまで重くなっていくのです。

さらに、不貞という行為は、当人同士だけの問題に留まりません。

夫婦の縁とは、二人だけの結びつきではなく、それぞれの家系や先祖から受け継がれてきた命の流れの上に成り立っています。その縁を踏みにじることは、互いの先祖が紡いできた歴史に対して背を向ける行いとも言えるでしょう。

古くから「末代まで恨みを残す」と言われるように、人の裏切りは当事者の悲しみに留まらず、家族や子孫へと影を落とします。不貞は、言わば互いの家の尊厳に対し、静かに争いを仕掛けるようなものです。見えぬところで、人と人との縁を深く傷つけてしまうのです。

宗教が不貞を戒める理由は、罰を与えるためではありません。

「あなた自身が、苦しまぬように」という、深い慈悲から生まれています。

誠実であることは、時に厳しく、退屈に感じることもあるでしょう。

しかし、誠実さの上に積み重ねられた日々は、揺らぎが少なく、心を静かに支えてくれます。信頼は目に見えませんが、人生の土台として確かに存在します。

不貞は、誰かを傷つける前に、まず自分の心を傷つけます。

宗教はそのことを、何百年、何千年も前から知っていたのです。

人は弱く、迷います。

だからこそ、道しるべとして教えがあり、戒めがあります。

縁を大切にすること。約束を守ること。

それは他人のためであると同時に、自分の人生を穏やかに保つための、最も確かな方法なのかもしれません。

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