半紙に書きおろされた導き

心の整理・思考法

あの方と出会ってから、

私のものの見方は、少しずつ、確かに変わっていった。

今はもう亡き、とある寺院のお坊さん。

世間では「透視」「霊視」と呼ばれる力を持つ方だったが、

ご本人はその言葉を好まなかった。

過去へさかのぼり、

出来事を一方向ではなく、いくつもの角度から見つめ直す。

まるで曇った鏡を丁寧に磨くように、

こちらの心の奥を静かに映し出してくれる人だった。

評判は自然と広まり、

週末ともなれば全国から多くの参拝者が訪れた。

それでも寺が騒がしくなることはなかった。

皆、どこか背筋を伸ばし、

自分自身と向き合う覚悟を胸に抱いて来ていたのだと思う。

私が心から信用した理由は、

その力の確かさだけではない。

「透視はいくらですか」

「霊視はいくら払えばいいですか」

そう尋ねる人に、

お坊さんは一度も金額を口にしなかった。

お金の話は、しない。

するなとも、しろとも言わない。

ただ、

「気持ちがあるなら、本堂の木箱へ」

そう静かに告げるだけだった。

布施を強いることもなければ、

拒むこともない。

そこにあったのは、

与える側と受け取る側の上下ではなく、

人と人との揺るぎない対等さだった。

一代で築かれた寺。

派手な看板も、宣伝もない。

それでも人が絶えなかったのは、

あの方が“力”ではなく、“在り方”そのもので示しておられたからだろう。

霊視によっておろされたお告げは、

一枚の半紙に、墨で書きおろされた。

筆の運びに迷いはなく、

そこには確信のようなものが宿っていた。

私自身、当時は多くの悩みを抱えていた。

仕事のこと、家のこと、

そして、自分はどこから来て、

どこへ向かおうとしているのかという、

言葉にしづらい根の部分。

お告げの中で、

繰り返し示されたのは「自分のルーツ」だった。

ある時、こう告げられた。

「お前の屋敷の近くに、南無地蔵大菩薩様がおられる」

そして半紙の上に、

地図のようなものが墨で描かれた。

道の向き、目印のような線、

簡素でありながら、意味を持つ配置。

そのお坊さんが、

私の住む土地を訪れたことは一度もない。

私自身、詳しく場所を語った覚えもない。

普通なら、分かるはずがない。

しかし不思議なことに、

そのお告げの通りに調べていくと、

実際に、そこに南無地蔵大菩薩様はおられた。

私の住む場所と、

その寺院のある場所は、

直線距離にしておよそ五百キロ。

偶然と片づけるには、

あまりにも具体的で、

あまりにも一致していた。

信じるか、信じないか。

それは、読む人それぞれで構わない。

ただ一つ言えるのは、

不思議な力を持たれた方は、

確かに、この世に存在するということ。

これは噂でも、

誰かから聞いた話でもない。

私自身が、現実として体験した出来事である。

亡くなられた今も、

あの本堂の木箱と、

半紙に残された墨の跡は、

私の心のどこかに静かに残っている。

答えを与えるためではなく、

歩く方向を照らすために。

理屈を超えたものに出会った時、

人は試される。

否定するか、盲信するかではなく、

どう受け取り、どう生きるかを。

今日もまた、

自分の足元を確かめながら、

静かに手を合わせている。

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