因果応報――
この言葉を聞くと、多くの人はどこかで「怖さ」や「裁き」を連想するかもしれません。
良いことをすれば良い報いがあり、
悪いことをすれば悪い報いがある。
まるで人生のどこかに、見張り役がいて、行いを逐一記録しているかのように。
けれど私は、因果応報とは誰かに裁かれる話ではなく、自分自身が自分に返していく、静かな循環なのではないかと思うのです。
たとえば、穏やかな湖を想像してみてください。
何も起こらなければ、水面はただ静かに空を映します。
そこへ小さな石を一つ落とせば、
必ず波紋が広がる。
それは湖が怒ったわけでも、罰を与えたわけでもありません。
ただ「起きたことが、そのまま返ってきた」だけです。
人の心も、人生も、それと同じです。
誰かに向けて投げた言葉。
胸の内に抱いた感情。
選んだ行動、選ばなかった行動。
それらはすべて、見えない波となって広がり、
巡り巡って、いつか自分の足元へ戻ってきます。
因果応報が厄介なのは、すぐに結果が現れないことです。
だから人は混乱します。
正直者が損をしているように見え、
ずる賢い人が得をしているように見える。
善意が踏みにじられ、理不尽がまかり通っているように思える瞬間も、確かにある。
しかし、人生は短い一場面だけで測れるものではありません。
今日の行いの結果が、一年後なのか、十年後なのか、あるいは形を変えて現れるのかは、誰にもわからない。
ただ一つ言えるのは、蒔いた種以外は、決して実らないということです。
不誠実を重ねた人は、いつか人を信じる力を失っていく。
人を傷つけ続けた人は、誰にも心を開けなくなっていく。
それは「罰」ではなく、自ら作り上げた世界に住むことになった、というだけの話です。
反対に、目立たなくとも誠実に生きてきた人は、困ったとき、思いもよらぬところから助けの手が差し伸べられる。
それもまた偶然ではなく、これまでに紡いできた縁の延長線上にあるものです。
因果応報とは、
善悪を単純に振り分けるための教えではありません。
「どう生きるか」を、自分に問い続けるための
静かな秤なのだと思います。
損か得か。
勝ちか負けか。
そうした物差しで測ると、心はすぐに濁ってしまう。
けれど、「この選択は、自分の心を裏切らないか」その一点で選び続けるなら、人生は不思議と大きくは狂いません。
今日の小さな親切が、今日すぐに報われなくてもいい。
今日こらえた一言が、誰にも評価されなくてもいい。
それでも、その積み重ねは、自分が自分を信じて生きるための土台になります。
因果応報とは、
未来のための教えであると同時に、
今の心を整えるための言葉。
静かに、確かに、この世界はつながっている。
だからこそ、今日もまた、胸を張れる一歩を選びたい――
私はそう思うのです。

