イライラしてはならぬと思っても

心の整理・思考法

修行が足りません

イライラしてはいけない。

そう頭では分かっていても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。

人として、穏やかでありたい。

できることなら、感情に振り回されず、常に平静でいたい。

それでも現実は、思うようにはいかないものです。

相手が常識人なら、まだ救われる

話し合いができる相手であれば、多少の行き違いがあっても修正が利きます。

互いに「分かろう」とする余地があるからです。

しかし、相手が常識を持ち合わせていない場合。

こちらが丁寧に言葉を選び、理を尽くしても、

その努力が空を切ることがあります。

常識が通じない相手に、常識で向き合おうとするほど、

こちらの心だけがすり減っていく。

それが一番、つらいところです。

非常識に腹が立つのではない

本当は、非常識な行動そのものよりも、

「話が通じない」という事実に、人は疲れてしまうのかもしれません。

理解し合える前提が崩れたとき、

人は無力さを感じ、やがて苛立ちに変わる。

それでも、

「腹を立てては相手と同じ土俵に立つことになる」

そう分かっているからこそ、余計に苦しくなるのです。

修行とは、感情をなくすことではない

修行が足りない、と自分を責めてしまうこともあります。

しかし、怒りを覚えること自体が、未熟さの証とは限りません。

大切なのは、

怒りが湧いたあと、どう振る舞うか。

飲み込むのか。

距離を取るのか。

それとも、静かに線を引くのか。

感情を持ちながらも、行動を選べるようになること。

それこそが、修行なのだと思います。

相手を変えようとしない

非常識な人を、常識人に変えることはできません。

それは、自分の心をすり減らす行為です。

変えられるのは、

距離感と、関わり方と、受け取り方だけ。

「分かってもらおう」とする執着を手放したとき、

不思議と心は軽くなります。

今日もまた、修行の途中

イライラしてしまった。

まだまだだな、と反省する。

それでいいのだと思います。

気づけている限り、人は少しずつ前に進んでいます。

穏やかさは、一夜で身につくものではありません。

今日のつまずきも、明日の静けさへの一歩。

修行は、

人に勝つためではなく、

自分の心を守るためにあるのです。

タイトルとURLをコピーしました