夫(そ)れ懺悔(さんげ)とは治病(じびょう)の妙薬(みょうやく)、開運(かいうん)の秘法(ひほう)なり。
若(も)し難病(なんびょう)を平癒(へいゆ)し、悪運(あくうん)を除(のぞ)かんと欲(ほっ)せばすべからく懺悔すべし。
因果(いんが)のことわりは厳正(げんせい)にして犯(おか)し難(がた)し。微罪(びざい)も猶(なお)、悪報(あくほう)をまぬがれず。
況(いわん)や不孝(ふこう)、不義(ふぎ)、不正(ふせい)、不貞(ふてい)、不倫(ふりん)、背徳(はいとく)、忘恩(ぼうおん)の大罪(だいざい)に於(お)いておや。
積(つも)りて難病の因(いん)となり、あつまりて厄災(やくさい)の縁(えん)となる。
倩(つらつ)ら惟(おも)うに、われ等(ら)無始(むし)よりこのかた、無明(むみょう)の酒(さけ)に酔(よ)いて、造(つく)るところの罪業(ざいごう)、無量無辺(むりょうむへん)なり。
あるいは子となりて親を嘆(なげ)かしめ、或(ある)いは弟子(でし)となりて師(し)を軽(かろ)んじ、或いは従者(しもべ)となりて主(しゅ)に背(そむ)き、或いは夫(おっと)となりて妻(つま)を虐(しいた)げ、或いは妻となりて夫を尅(こく)し、或いは姑(しゅうとめ)となりて嫁を憎(にく)み、或いは嫁となりて姑に逆(さか)らい、或いは兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)牆(かき)にせめぎ、或いは恩(おん)を怨(あだ)にしてかえし、或いは他人(ひと)の不利(ふり)を計(はか)り、或いは約束(やくそく)を守(まも)らず、或いは悪口(あっく)、両舌(りょうぜつ)、妄語(もうご)、綺語(きご)をもてあそび、或いは邪淫(じゃいん)を行(あこな)い、或いは乱暴(らんぼう)を働(はたら)き、或いは殺生(せっしょう)し、或いは偸盗(ちゅうとう)をなし、或いは強情(ごうじょう)にして他(ひと)と和せず、或いは冷酷(れいこく)にして他を愛(あい)せず、或いは憍慢(きょうまん)にして他を蔑(ないがし)ろにし、或いは執念深(しゅうねんぶか)くして他を怨(うら)み、或いは非道(ひどう)にして他を苦(くる)しめ、或いは強欲(ごうよく)にして物を惜(お)しむなど、斯(かく)くの如(ごと)き悪業(あくごう)を集(あつ)めて、己(おのれ)の骨(ほね)となし肉(にく)となす。
いかでか悪報(あくほう)をまぬがれんや。これまた宿業(しゅくごう)のみにあらず。今世(このよ)に於(お)いて更(さら)に罪(つみ)を造(つく)れるに於(お)いておや。
夫れ黒衣(くろきころも)を纏(まと)える者(もの)は、襟裏(えりのうら)の垢穢(あか)を覚(さと)らず。白衣(しろきころも)を纏える者は、薄々(わずか)の不浄(けがれ)をも畏(おそ)る。
幸(さいわ)いなるかな、われら一分(いちぶん)の宿福(しゅくふく)あって遭(あ)い難(がた)き妙法(みょうほう)に遭いたてまつり、法界(ほうかい)の霊主(みおや)、壽量佛(じゅりょうぶつ)の御前(みまえ)に跪(ひざま)づきて、深く懺悔滅罪(さんげめつざい)の念(こころ)を生(おこ)すことを得(え)たり。
経(きょう)に曰(いわ)く、一切(いっさい)の業障海(ごうしょうかい)は皆(み)な妄想(もうぞう)より生(しょう)ず。若(も)し懺悔せんと欲(ほっ)せば、端座(たんざ)して実相(じっそう)を思(おも)へ。衆罪(しゅざい)は霜露(そうろ)の如(ごと)し。慧日(えにち)よく消除(しょうじょ)すと。
仰(あお)ぎ願(ねが)わくば、唱(とな)えたてまつる南無妙法蓮華経の慧日(えにち)、諸法実相(しょほうじっそう)の霊光(れいこう)を放(はな)ちて、われら無始(むし)の惑業(わくごう)を滅(めっ)し、速(すみや)かに病苦(びょうく)を救(すく)い、定業(じょうごう)を転(てん)じて、現世安穏(げんぜあんのん)の大利益(だいりやく)を授(さず)け給(たま)わんことを、至心(ししん)に懺悔(さんげ)し、一心(いっしん)に悃禱(こんとう)したてまつる。
意味
■ 懺悔は治病・開運の妙薬
懺悔とは、病を治し、悪運を取り除く不思議な霊薬である。
重い病を癒し、不運を除こうと願うなら、何よりもまず懺悔すべきである。
■ 因果は厳正である
因果の道理はきわめて厳しく、わずかな罪であっても悪い報いを免れることはできない。
ましてや、不孝・不義・不正・不貞・不倫・背徳・恩を忘れる行いといった大きな罪であれば、なおさらである。
■ 罪は積み重なり、病や災いとなる
それらの罪が積み重なって難病の原因となり、集まって厄災を引き寄せる縁となる。
■ 人は皆、無明に酔って罪を造ってきた
よく考えてみれば、私たちははるかな過去より無知の酒に酔い、
親を悲しませ、師を軽んじ、配偶者や家族を傷つけ、
人を欺き、約束を破り、悪口や嘘を語り、欲に溺れ、
殺し、盗み、怒り、憎み、冷酷で、傲慢で、強欲であった。
そうした無数の悪業を、自らの骨とし肉として生きているのが、今の私たちである。
■ 悪報を免れぬのは当然
これでどうして悪い報いを免れることができようか。
それは過去世の宿業だけでなく、今世においても新たに罪を造っているからである。
■ 自覚なき者と、畏れる者
汚れた衣を着る者は、その汚れに気づかない。
しかし白い衣を着る者は、わずかな汚れさえ恐れる。
(=信仰に目覚めた者ほど、自らの罪に敏感になる)
■ 妙法に遭えた幸い
幸いにも私たちは、わずかな宿福によって、出会い難い妙法に巡り会い、
寿量仏(久遠の仏)の御前にひざまずき、
深く懺悔し、罪を滅ぼそうとする心を起こすことができた。
■ 経文の引用
「すべての罪や障りは、妄想(迷いの心)から生じる。
懺悔しようとするなら、静かに座って真実の姿(実相)を観よ。
罪は霜や露のようなもので、智慧の太陽が昇れば消えてしまう」
■ 結びの祈り
私たちのはるかな過去からの迷いと罪を滅し、
病の苦しみを救い、定まった運命さえ転じ、
この世において安らかで確かな利益をお授けくださいますように。
そのことを、心の底から懺悔し、ひたすらに祈り願い奉る。
一言でまとめると
人の病や不運は偶然ではなく、因果の結果である。
しかし、真実を悟り、懺悔し、正法に帰依するならば、
その因果さえも転じることができる。
人は、何度でも立ち直れる
人生には、
どうにもならないと思える苦しみがあります。
しかし、
懺悔とは「終わり」ではなく、
**「始まり」**です。
心が整えば、行いが変わり、
行いが変われば、縁が変わる。
縁が変われば、運命もまた変わっていく。
それは奇跡ではなく、
静かな因果の転換です。
今日という一日が、
少しでも穏やかにありますように。
過去に囚われすぎず、
未来を恐れすぎず、
今の自分を、丁寧に生きる。
それもまた、
懺悔のかたちなのだと思います。

